「耳をすませば」(宮崎駿、1995)を久しぶりに見た。

聖司と雫の二人乗り。真冬の真夜中ですが、この二人は熱々。

 

きっかけは、ジブリショップを、二箇所ほど覗いたことだった。

トトロの大きなぬいぐるみ。ジジの置き物。そして溢れるポニョグッズ。癒される空間だった。

 

二回目は、偶然、友人と一緒に見ていた。そのとき、友人が、

「『耳をすませば』が一番好き」

と言ったのだった。

女の子たちが夢中になった映画なので、私は「うんわかる」と頷いた。

 

しかし、その後、友人は、夢のない発言をするのであった。

「でも、最後に、何だっけ、10年後くらいに結婚しようって話をするじゃん」

「うん」

「あれさ、他の友達と話してたんだけど。

もし10年後に、お互い・・・何ていうか、みすぼらしくなってたらどうするんだろうね、って」

「・・・」

驚いた。

あまりに驚いたので、友人に何と答えたのかは覚えていない。

 

しかし、それが、私がこの作品をもう一度見ようと思ったきっかけである。

久しぶりに見直して、気を取り直した、もとい、改めて思ったことを書く。

 

 

1995年に、映画館でこの作品を観たときのことは、今でも忘れらない。小学生であったし、まだまだ物語を解する能力に欠けていたはずではあったけど、心に響くその物語は、いつまでも私の記憶に残り続けた。

カントリー・ロードを、何度も何度も聴き続けていた。

 

月島雫は、本を読むことが好きな少女。それが、バイオリン職人を目指す天沢聖司に出会うことによって、自分のまったく決まっていない進路について悩み、考え始める。

 

映画では、雫がラピスラズリの鉱脈を、バロンと共に探しに行くという物語が挿入される。

その物語と平行して、雫は自分の夢を模索し続ける。聖司が自分の夢を確固として持っており、中学卒業と同時に、イタリアに行くと言っている、その姿に、焦りを感じたためだ。

聖司はどこまでも前向きで、大人びていて、雫を優しく受け止めていた。

そして、最終的に、雫は自分の才能を伸ばすためのきっかけをつかむ。

そして聖司と結婚の約束をする。映画はそこで終わる。

雫に「結婚しよう!」と言う聖司。なかなか勇気のいること。サマになってる。

 

図書カード、小学校、そして中学校のときまでは、あっただろうか。高校の頃は、よく覚えていない。

私は本の虫で、図書館によく通ったが、図書カードのエピソードは、よく共感した。新しい本が入ってきて、一番目に名前を書くことが、何よりも楽しかったし、あまりに面白い本のシリーズだと、一日に2冊ずつ(借りることができる最高冊数)読みきってしまい、毎日借り続けたこともあった。

同じく本好きの同級生と、どちらが先に借りるか、競い合ったこともあった。

闘争心の強い子どもだったので、単なる負けず嫌いだったのかもしれない。読書好きが恋愛に発展したことは、それほどなかった。

 

恋愛といえば、雫の友達が好きな男の子が、他クラスの男からのラブレターを、その友達に渡してくる。そして雫がその男の子を怒ると、男の子は、だってお前が好きなんだもん、と雫に告白してくる。

理解してもらえただろうか。他クラスの男子→雫の友達→男の子→雫(→聖司)と、見事に一直線。三角関係にもなっていない。

友達が好きな男子を自分も好きになってしまったり、親友と喧嘩してしまったりというような、少女漫画にお決まりのパターンさえない。

 

これは単純な、恋の物語ではない。

むしろ、もやもやとした将来に悩む、文学少女な、雫の夢を見つける物語であっただろうと言える。

作家という、普通とは異なる道を肯定してくれる大人に出会え、また、同じくバイオリン職人という夢をしっかり持っている同い年の男の子に会えたということが、雫にとっての幸運であった。

ほのかに夢を持ち続けることができるほど、現代社会は優しくない。また、周囲にしっかり語れる夢を持つほど、意思がしっかりした人間を作り出す教育ではない。自分の夢を肯定できるほど強い人間になれる環境がそこここにあって、皆が「そのように」行動していたら、きっと、日本という国は、ずいぶん趣が異なった国になっていたであろうと思う。

今、周囲を見ていても、「夢を持って行動している」というよりは、「流れで無難な道を選んで生きている」という姿しか見えない。恐らく、雫くらい若いときに、悩んで来なかったためであろう。

「耳をすませば」の制作陣のメッセージは、こういうことだったのでは、と思う。

悩め、と、言っているのだ。

そして、自分の道を歩け、と。

知る人ぞ知る脇役の二人のその後。幸せは、誰にでも来る。

 

ちなみに、こちらのリンクが興味深かった。(耳をすませば―原作と映画の遠すぎる距離

原作もちらっと読んだが、確かに、映画とは異なる部分が多い。

この漫画は、本来、第4話で打ち切りされたくらい、読者に受けはよくなかったらしく、作者も映画化の話に驚いた、と伝えられている。

そのため、耳をすませばに関するコミックスは2冊までしか出ていないし、おそらく、これからも続編は出ないであろう。

だから、私たちは続きを想像することしかできない。

しかしそれこそ、実は、喜ばしいことなのだろうと思う。

私はハッピーエンドを予想すればいい。

もちろん、例の話をしてくれた友人は、そのような続きを想像すればいい。

物語は読者に託され、それは、見た人の数だけ、夢を与えるのである。

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おまけリンク。

耳をすませばのパロディ漫画です。

私が書いてきた理想論とは打って変わって、イメージを崩すことうけあいのものなので、

くれぐれも閲覧にはお気をつけください。検索で偶然に見つけたものなので、管理人さんにもご迷惑にならないようにお願いします。

耳をすませばパロディ1

 

そうそう、さらに、夢のない話を思いついたので、これより下は、本気で思い入れがない人のみ、お読みください。

 

いいですか?

 

純粋な人は読んではいけませんよ?

 

・・・・・・・。

 

それでは話を。

 

友人の話に戻ろう。10年後にみすぼらしくなっていたら〜という話だ。

私は、基本的にそれはないだろうと思っている。

聖司は医者の息子らしいし、雫も中流家庭の娘である。

みすぼらしく、ということかはわからないが、少なくとも、貧しさに耐え、という状況はない。今より、多少おしゃれになって、大人びているのでは、というくらいだ。

これは勝手な予想だが、雫は純粋な文学少女として、図書館の司書をしながら、聖司を待ち続ける。一方、聖司も、雫と結婚することを夢見てバイオリン作りの訓練を真面目に受けつつ、イタリア人女性の誘惑も時には受けたりして。そして、10年経って帰国して、雫と結婚。幸せに暮らす、と。

根拠はないけれど、勘です。妄想と言っても差し支えない程度の。

そして、10年後といえば、お互いに26歳くらい。今の感覚で言うと、男も女も、まだまだこれからという歳である。

そのときに恐らく、結婚するであろう二人は、もしかすると、とっても幸せなカップルなのではないかと思う。

柊あおいの漫画で、「銀色のハーモニー」という作品がある。私はこの作品が好きだった。

彼女の世界は、リアルな夢の世界、である。そして、最後はハッピーエンド。

少女マンガの世界の約束事だけれど、それは、きっと、雫と聖司の世界を縛り続ける。

 

 

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